アルゼンチン共和国大使講演会
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日 時: 11 月 30 日(土)15:00〜16:15 会 場 :守谷市の 国際交流研修センター(ログハウス) 講 師:アラン・ベロー駐日特命全権大使
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茨城県守谷市の国際交流協会(MIFA)の主催で、アルゼンチン共和国大使講演会が実施されましたので、報告します。 本講演会は「アルゼンチンについて、そして日本との結びつき」と題して、 アラン・ベロー駐日特命全権大使により、行われました。 大使はアルゼンチンが独立200 周年の 2016年に日本へ赴任されました。この年は日本からアルゼンチンへ の移民 130 年の記念すべき年でした。2018年には日亜外交樹立120 周年を迎えています。講演会では、アルゼンチンについて、および、120年におよぶ両国の関係 についてお話しいただく予定でしたが、前者のアルゼンチンの見どころ(イグアスの滝、パタゴニア大氷河ペリトモレノ、南極など)の説明で終わり、後者の日本との関係についてあまり説明がありませんでした。したがって、当方で関連するアルゼンチンと日本との関係を調べましたので、報告します。 まずアルゼンチンといえば、防大の図書館の中庭にあるサン・マルチン将軍の胸像です。皆さん知ってました? 写真を添付します。
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サン・マルチン将軍 胸像 The bust of General San Martin セ・フランシスコ・デ・サン・マルティン・イ・マトーラス(José Francisco de San Martíny Matorras, (February 25, 1778〜August 17, 1850))は、アルゼンチン出身の軍人で政治家。南アメリカ各国をスペインから独立させるために活躍した。(文末参考参照) シモン・ボリーバルや、ホセ・アルティーガスと並ぶ解放者として称えられている。 防大にこの胸像が設置された経緯は、戦後の初代駐日アルゼンチン大使カルロス・キロス氏が離任帰国に際し、記念にと一枚の写真を元にサン・マルチン将軍の胸像製作を彫刻家小島正男に委嘱した。初め等身大ということで見積もられたが、小さ過ぎるので等身2倍となり、二倍であるから予算も二倍というラテン民族特有の大らかさに、小島氏も両国親善の為と心よく引受けられ、その出来 栄えの見事さにキロス大使も感心されたとの事である。 大使はこの胸像を東京都に寄贈する予定であったが、東京都には外国偉人の銅像がどこにもなく、前例がないということで断られてしまったのである。たまたまそれを聞いた日本アルゼンチン協会会長内山氏が、知人の海軍退役将官を通じて防衛大学校へ寄贈の話が持ち込まれ 当時の槇校長の御快諾により昭和31年7月正式に寄贈されたものである。最初の三ヶ月間、胸像は図書館内に保管されていたが、昭和34年日本アルゼンチン協会より台座が寄贈されて図書館中庭に胸像が設置され、次いで昭和36年フロンディジ大統領訪問を機会に再び同協会が玉伊吹の植樹を寄贈し、胸像の周辺に緑の装いが添えられました。 在京アルゼンチン大使は、サン・マルチン将軍の命日には毎年花輪を捧げており(昨年の献花の状況を参照)、アルゼンチンから大統領、外務大臣、練習艦等が公式訪問の際は必ずこの胸像を訪れ花輪を捧げるのを常としています。 日露戦争 アルゼンチンがイタリア、ジェノバに発注していた軍艦二隻が、チリとの軍縮協定で不要になったので、当時日露戦争をひかえ軍艦が必要だった日本へ譲ったとゆうことです。その二隻、モレノ(日進)、リバダビア(春日)で日本海海戦で活躍しました。
軍艦「日進」 軍艦「春日」 日本海海戦は、日露戦争中の1905年(明治38年)5月27日から5月28日にかけて、日本海軍の連合艦隊とロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊(バルチック艦隊)との間で行われた海戦である。 海戦の模様などについては、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」をはじめ多くの記録文献が発表されています。 しかしながら、アルゼンチンから譲渡された、装甲巡洋艦「春日」の士官室にピアノが置かれていて、誰が弾くともなく決戦を前にした将兵の緊張を和らげていた、という 話はほとんど書かれていない。海戦中は至近距離で砲弾が炸裂したにもかかわらず、幸運にも無事帰還し、建国100周年に当たる1910年7月にアルゼンチンに返還され、その後はブエノス・アイレス郊外 ティグレ市にある海軍博物館に保存陳列されています。 日系アルゼンチン移民略史 日系アルゼンチン人の歴史は1908年から1909年にかけて、沖縄と鹿児島から移民が到着したときに始まりました。 アルゼンチンではこの2県出身の日系人が多くいます。初めてアルゼンチンに着いた日本人はブラジル経由で入国しました。その後も、近隣の国へまず入ってからアルゼンチンへ入国する日本人移民が多かったのです。 戦前には、日系アルゼンチン人の大部分は都市部で小さな商売を営んでいました。特にブエノスアイレスでドライクリーニング業とカフェを営む人が多かったのですが、ほかに、奉公人、工場の従業員、港湾労働者として働いた日本人もいました。さらに、少数ながら園芸業、花卉業、漁業などに従事する人もいました。日本人の多い地方では、県人会や日本語学校等の組織が作られ、日系コミュニティ形成と連帯の中心的役割を果たしました。 第2次世界大戦の影響 日米が戦争をしていたとき、アルゼンチンは1943年まで中立を保っていたので、日系アルゼンチン人の生活には大きな影響はありませんでした。それでも、1944年から1946年にかけては、集会、日本語教育、新聞発行等は禁止され、日本人の財産凍結も行われました。その間、日本人居住者は、よりアルゼンチン社会に溶け込んで、アルゼンチンを自分達の故郷にするよう努力しました。 1960年代以降の移民の波 1960年代から70年代にかけて、新しい移民の波が日系社会を再び活性化しました。多くの移民は農業分野での経済的可能性に引かれてやって来ました。戦後、アルゼンチン生まれの日系人の社会的地位が向上するようになります。多くは大学以上の教育をうけ、またカトリック教徒でもあります。専門職、技術職に就きたいと希望する人が増え、若い日系アルゼンチン人の選ぶキャリアは今ではどんどん多様化してきています。1980年代の不景気を反映して、二世・三世の中には、日本で働くことを決めた人たちもいました。
1920年代にはクリーニング業が日本人居住者のよく従事した職業であった。「キョウト」クリーニング店の経営者 (1914年にアルゼンチン入国)。店はブエノスアイレス、ラバレ通りの2047番にあった。(サトウ家所蔵)(アメリカ大陸日系人百科事典より)
最後に
日露戦争の時、大国ロシアを相手に、小国の日本が戦うということで、どこの国も相手にしてくれなかったときに、アルゼンチンは日本に巡洋艦2隻を譲ってくれて、日本海海戦の勝利の一因となったことは有名な話です。
また、世界一遠い国ですが、移民により、日本人はたくさんいて、各方面で活躍されています。 秋山記
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(参考) ホセ・デ・サン・マルチン将軍は南アメリカ独立運動の英雄で、1778年2月25日 スペイン士官を父としてアルゼンチン北部のヤペユに生まれた 9才の時スペインに渡り 、 マドリッドで軍人教育を受けて王室軍に入隊 15才で少尉に30才で中佐に昇進した。 ナポレオンとの戦いで武勲をあげた彼は1812年大佐に昇進する予定であったが、南アメリカ諸国がスペインからの独立に蜂起した知らせに接するや、大佐昇任の前夜退役し、 生まれ故郷のアルゼンチンに帰り革命運動に参加した。 ブエノス・アイレスの革命政府のもとで軍隊を訓練した彼は、1812年ホセ・バザラ将軍指揮のスペイン軍をサン・ロレンゾにおいて撃滅、ついで亡命中のチリの革命家オイ ギンスの軍と共にアンデス山脈を越えてチリに入り、1817年チャカブコの戦いでスペイン軍を打破ってチリを解放した。 ここで彼は海軍を再編成して海路ペルーに向い、1821年リマを攻略して独立を宣言した。 翌年、南アメリカ北部の解放者シモン・ボリバルとグアヤキルで会見した彼は、相互協力を期待しつつ、独立運動と南アメリカの将来について語り合ったが、政治権力への志向にとぼしかった彼はボリバルと合意に至らず、会見は物別れに終わってしまった。 折から病を得た彼は、政争からのがれるように再びヨーロッパに渡り、1850年8月17日パリで客死した。 南アメリカをスペインから独立させるために果たした業績はシモン・ボリーバルと比較すると、同等とまで言うことは難しいが、現在でも南米南部の独立の英雄として広く尊敬を集めており、特にアルゼンチンでは彼の命日を国民の祝日として定め、紙幣の肖像画(現行の5アルゼンチン・ペソ紙幣)にも採用している。 5ペソ 肖像はサン・マルチン将軍 アルゼンチン駐日特命全権大使 アラン・ベロー氏 プロフィール 学 歴: ブエノスアイレス大学法科大学院 主要経歴: 1984 ブエノスアイレス大学法科大学院 主席卒業 外務省入省 1984-1986 外務省法律顧問室 法務担当官 1987-1991 駐ウルグアイモンテビデオ市 総領事館領事担当官 1994-1998 駐ベネズエラ大使館 経済・貿易参事官 2000-2001 外務省 法務顧問 2002-2005 外務省 法務次席顧問 2006-2011 駐欧州連合大使館 次席公使 2012 から 大使 2016 から 駐日特命全権大使
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