3月初旬に始まったばかりの英・EU「将来関係に関する協定」を巡る交渉は、世界を覆う新コロナウイルスの猛威の前に、国際政治の舞台からかき消されたように見えます。

周知の通りイギリスでは、326日、ジョンソン首相に咳や発熱などコロナウイルスの症状が出て4月5日にロンドン市内の病院に入院、症状が悪化したため集中治療室(ICUに移されました。幸いにも「生きるか死ぬか」の深刻な状況を脱し、9日夕には一般病棟へ戻り、412日に退院しました。現在、首相は、チェッカーズ(首相別荘)で静養しながら職務への復帰を期しているようです。本人は意気軒昂ながら医療チームの助言があり、すぐには公務に戻らないようです。一方、イギリスでは、420日現在、新型コロナによる感染者は120,067人、死者が16,060人に達し、死者の数では世界で5番目となっています。

一方、EU各国も感染の拡大に歯止めが掛からず、死者数はイタリアが米国(40,522人)に次ぐ2番目で23,660人、3番目がスペインで20,453人、4番目がフランスで19,718人などとなっています。イギリスもEU加盟各国も、今はウイルス感染の拡大を防ぎ国民の命を守ること、経済活動を維持・回復することに必死であり、英・EU交渉の行方は全く見通せなくなりました。このコロナウイルスが世界経済に与える破壊力は、欧州の経済・社会状況をも一変させ、イギリスのEU離脱問題をゼロベースに引き戻す可能性すらあります。

こうした情勢ですが、この機会に、イギリスのEU離脱が実質的に達成された場合、それが「欧州の安全保障に与える影響」という観点から2回に分けて述べて見たいと思います。

もとより欧州の安全保障を担っているのは北大西洋条約機構(NATO)ですが、そのNATOの設立を主導したのはイギリスであり、NATOの通常戦力・核戦力の大部分を提供している米国との「特別な関係」を背景に、欧州と米国とのつなぎ役としてNATOを支えて来たのもイギリスです。一方、EUの設立を主導して来たのはフランスで、そのフランスは伝統的に欧州の安全保障の「欧州化」を目指しています。また、NATO加盟30ヶ国とEU加盟27ヶ国のうち21カ国が両方の加盟国です。イギリスのEUからの離脱は、欧州本土との距離を遠ざけNATOの根幹である「集団防衛」を揺るがせる事態となるのか、あるいは、イギリスは、NATOにあってはこれまで通り欧州防衛の中心としてその存在感を示すのかが今後注目されます。

1回目は、まず、NATOが冷戦後如何に変化し、現在どのような組織になっているかをおさらいしてみたいと思います。

なお、小論記述にあたっては、NATO公式ホームページ、外務省、防衛研究所、東京大学大学院、日本国際問題研究所などの公表されているNATO関連資料、内外メディアの記事を参考にしました。

 

「冷戦後のNATOの変容」記述順序>

1.はじめに

2.脅威認識と戦略の変化

3.東方拡大

4.ウクライナ危機後の NATO の変容

5.集団防衛への回帰か? 集団防衛の概念を変更か?

6.おわりに日本との関係)

 

令和2420日   松井茂基

 

 

2.4.20

 

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 冷戦後の北大西洋条約機構(NATO)の変容

 

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1.はじめに

「史上最も成功した同盟」と言われる北大西洋条約機構(NATO:North Atlantic Treaty Organization)は、条約条文上はどこをも敵国と定めていない“集団防衛”のための組織となっている。しかし、周知の通り、NATOは、1949年の創設以来ソ連およびその同盟国と戦うこと以外は全く想定してこなかった組織である。NATO軍は、「前方防衛戦略」と「柔軟反応戦略」という2本柱の戦略のもと、ソ連やワルシャワ条約機構(WTO: Warsaw Treaty Organization)軍の戦車が東西ドイツ国境のフルダ・ギャップ(*)を突破してくる日を最も警戒しそれに備える組織であった。より正確に言えば、そのような事態に備えることによって、そのようなことが起こることを抑止するためのものだった。しかし、1991年、ソヴィエト連邦が崩壊し、WTOも解体された。冷戦は西側の圧倒的勝利に終わったのである。

ソ連という脅威が消滅したことは、同時にNATO が存続する理由をも失わせた。しかし「史上最も成功した同盟」を解体してしまうのは余りにもったいないという意識は誰もが持っていたし、特に官僚機構としての NATO には、当然、自己保存の力学も働いた。

現実には、冷戦後のミッションを探し、NATO が存続するための「意味付け」を求めた。この「意味付け」は、NATOを集団防衛から集団安全保障、危機管理の機構へ移行させることによりなされた。つまり、集団防衛を発動する蓋然性がなくなり、集団防衛機構としての性格が薄れたことで、NATOはそれに代わる集団防衛以外の機能的側面を拡大したのである。更に、バルト三国や冷戦時WTOを構成していた旧東欧諸国がNATO加盟を強く求めそれを認めたことでNATOの地理的領域が東方へ大きく拡大した。こうした機能的拡大と地理的拡大の2つが冷戦後のNATOの顕著な変容である。

一方で、2014 年に生起したウクライナ危機は、NATOが集団防衛の重要性を見直す契機となった。ウクライナ危機以降、NATOは同盟としての性質を再び一転させ、ロシアを脅威とみなすことで伝統的な集団防衛への回帰を進めているように見える。

NATOは、創設翌年の1950年に初めてNATOの主要任務と戦略を示した公式文書「戦略概念(The Alliance's Strategic Concept)」を策定し、それ以降、時々の情勢に応じて戦略の見直しを行ってきた。そこで本小論では、冷戦の終結にともない策定された「1991 年戦略概念」、ボスニア・ヘルツェ ゴビナ紛争への介入を契機としたNATO 域外での実任務経験を踏まえて策定された「1999 年戦略概念」、そして 2001 年の同時多発テロ後の安全保障環境を考慮した最新の「2010 年戦略概念」の 3 つの戦略概念と、2014年に生起したウクライナ危機に見られる対応などから冷戦後のNATO変容の推移を考察してみた。

 

*フルダ・ギャップ

フルダ・ギャップは、東ドイツ国境が西ドイツ領に最も食い込んでいる地域にある渓谷で、WTO軍が渓谷の正面100km先に位置する西独領フランクフルト市を目指し突進してくる蓋然性が最も高い場所と考えられていた。同地域に展開するアメリカ陸軍最強の機甲軍団を含め、東西ドイツ国境沿いには、西独を含むNATO欧州連合軍隷下の6ヶ国の軍隊20万人が前方展開していた。私が防衛駐在官としてNATO本部や欧州連合軍最高司令部のあるベルギーに駐在した198386年は、ソ連がSS-20中距離核ミサイルを欧州及び極東に配備し、NATO諸国もこれに対抗してアメリカの陸上・海上・空中発射型巡航核ミサイル(GLCMSLCMALCM)の配備を受け入れるという東西関係が最も緊張した時期であった。こうした中、私はフルダ・ギャップの正面に展開するアメリカ機甲軍団を訪ね、地上から、またヘリに搭乗してこの地域のWPO軍の配備状況や両ブロックの緊張状態の一端を視察させて貰ったことを思い出す。

想定されていたフルダ・ギャップからフランクフルトへの侵攻ルート

 

2.「戦略概念」から伺われる脅威認識と戦略の変化

2-1 1991年戦略概念

2-1-1 脅威認識

東西冷戦の終結により、NATO にとっての大規模かつ差し迫った潜在的脅威は消滅したとの認識を示しつつも、一方で、将来的な不確実性や安全保障上のリスクは残っているとし、

その例として、中欧・東欧諸国が直面している国内における経済・社会・政治上の困難や、民族・領土紛争などにより引き起こされる地域の不安定化を挙げている。

 

2-1-2 戦略

多種多様で予測が困難なリスクに対応することをNATO の課題として挙げることにより、同盟の存在意義を示している。他方、軍事的観点からは、必要に応じて前方防衛におけるプレゼンスを縮小し、柔軟反応戦略のコンセプトを修正し核への依存を低下させ、NATO 軍の全体としての規模やレディネス態勢を削減させるとしている。このことから、大規模部隊の配備による伝統的な集団防衛重視の姿勢から、展開力、機動力、柔軟性の高い小規模部隊により、多様化する任務に適切に対応できる体制へと変化しようとする試みが伺える。

 

2-2 1999 年戦略概念

2-2-1 脅威認識

1991年戦略概念では抽象的であったNATO にとってのリスクを、1999 年戦略概念では約10 年の実践を経てより具体化させたことが特徴である。即ち、NATO に対する大規模な侵略の可能性は極めて低いものの、NATOの周辺における経済危機、民族・宗教・領土の紛争、人権の侵害、国家の破たんなどの地域的危機を含む予測困難な多様な軍事的、非軍事的リスクをNATOの潜在的脅威として挙げている。

 

2-2-2 戦略概念

NATO潜在的脅威となり得るリスクの拡大を防止するためには、域外における危機管理任務が必要であるとの認識から、19958月にはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へ、19993 月にはコソボ紛争へ介入した。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで1992年から1995年まで続いた内戦で、19958月、NATO加盟諸国が行ったセルビア陸軍に対する空爆によって停戦となった。また、コソボ紛争は、ユーゴスラビア内戦の過程で、19982月から19993月にかけて行われたユーゴスラビア軍及びセルビア人勢力と、コソボの独立を求めるアルバニア人の武装組織コソボ解放軍との戦闘である。NATOコソボのアルバニア人支援と言う人道上の理由から本紛争に介入、1999324日から610日にかけて航空攻撃を行った。この作戦にはNATO13カ国の空軍機が参加した。

NATOはこの両任務をNATOの本来任務として正当化し、危機管理任務を正式任務化すると言う機能的拡大を図った。この機能的拡大を欧州地域全体の平和・安全・秩序の維持へ貢献するものし、軍事力の規模についても、集団防衛に必要最小限のレベルを維持しつつ、必要に応じて域外の配備も含め十分なプレゼンスを確保するとしている。

この期間、更に注目されることは、1994年のブリュッセル首脳会議で、各国首脳がNATOは基本的に加盟にオープンであることを再確認し、加盟希望国との新しい関係を築くために、「平和のためのパートナーシップ (PfP: Partnership for Peace)」 を創設したことである。これにより、NATOは ロシアを脅威としてではなく協調すべきパートナーとして位置付けるとともに、NATO の地理的拡大の第一歩を踏み出したことである。

 

2-3 2010年戦略概念

2-3-1 脅威認識

2010年戦略概念は、2001年のアメリカにおける同時多発テロ、2008年のジョージア危機などのNATO を取り巻く安全保障環境の変化を踏まえて策定された。

   同時多発テロ

2001911日、アメリカで、イスラム過激派テロ組織アルカイダによる4つのテロ攻撃が同時多発的に実行された。この事件を契機として、国際テロ組織の脅威が世界的に認識されるようになり、アメリカはテロとのグローバル戦争を標榜して、有志連合と共にアルカイダやアルカイダに支援を行った国への報復を宣言した。これがアフガニスタン攻撃、イラク戦争へ繋がった。

アフガニスタン攻撃については、米同時多発テロ後、首謀者とされたアルカイダ指導者オサマ・ビンラディン容疑者の引き渡しにアフガニスタンのタリバン政権が応じなかったため、同年107日アメリカはイギリスと共にアフガニスタンへの空爆を開始した。NATO102日、北大西洋条約第5条(*)の正式発動を決めており、組織全体としてはアメリカと共同の軍事行動は行わなかったものの、イギリスが空爆に参加したほか、関係国が米軍機の領空通過を認め、フランスがインド洋へフリゲート間と補給艦の2隻を派遣して米艦艇の補給と護衛を支援するなどしている。同年末にタリバン政権が崩壊、国家間の「戦争」は終結したが、2005年頃からタリバンの活動が活発化してテロや戦闘が拡大したため、その後も対テロ戦争は継続した。NATO対テロ戦争には賛同しつつも、各国が自主的に参戦するに留め、新生アフガン軍の訓練にNATOの教官が参加することで協力した。2005年にはアフガニスタンでの軍事行動に関する権限の一部が、イラク戦争で疲弊したアメリカ軍からNATOに移譲され、NATO軍は初の地上軍による作戦を行うに至った。20067月にはアフガンでの権限を全て委譲され、NATO加盟国以外を含む多国籍軍である国際治安支援部隊ISAF)を率いることとなった。

 

北大西洋条約第5条 (集団防衛)

欧州又は北米における1または2以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなす。締約国は,武力攻撃が行われたときは,国連憲章の認める個別的又は集団的自衛権を行使して,北大西洋地域の安全を回復し及び維持するために必要と認める行動(兵力の使用を含む。)を個別的に及び共同して直ちにとることにより,攻撃を受けた締約国を援助する。

一方、イラク戦争については、同時多発テロ以降,アメリカは、イラクの大量破壊兵器保有の可能性を危険視して,サダム・フセイン政権転覆を目的とした軍事行動への動きを強めた。イラクの大量破壊兵器保有を主張して軍事行動を訴えるアメリカ、イギリス及びアメリカに追従するポーランドなど東欧の新加盟国に対し,フランスとドイツなどの旧加盟国が強硬に反対したために足並みは乱れ内部分裂した。2003320日,米・英軍は国連での合意がないまま対イラク攻撃を開始。49日にアメリカ軍がバグダッドを陥落させ,フセイン政権は事実上崩壊した。サダム・フセインは同 200312月にアメリカ軍に逮捕され,2006年末にイラク特別法廷で死刑宣告を受け処刑された。

 

   ジョージア(旧称グルジア)危機

ジョージア危機は、2008年、ジョージアとロシア連邦間の戦争で21世紀最初のヨーロッパの戦争とされる。ジョージアもロシアもともに1991年までは同年に解体したソヴィエト連邦を構成する15共和国のうちの2国だった。ジョージアは1991年のソ連崩壊以来、ロシア支配からの脱却を図り、欧米に接近する政策をとってきた。

ジョージア国内には同政府の支配が及ばないロシア寄りの南オセチアとアブハジアの2地域があり、この地域をロシアに帰属させるか否かがジョージアとロシア連邦間で以前から争われ、2008年の夏にはかなり緊張が高まっていた。同年87日の午後、ジョージア軍は南オセチア地域へ陸軍、空軍を投入して大規模な軍事攻撃を行った。ロシアはジョージアの動きを受けて南オセチア支援の軍を差し向け、ジョージア領内への攻撃を開始した。この後5日間にわたる激しい戦闘の結果、ジョージア軍は南オセチア及びアブハジアから撤退させられた。当時EU理事会議長国であったフランスの仲介で812日に休戦提案が行われ両国共に署名に応じた。826日、ロシアは国際的にはジョージア領とされている南オセチアとアブハジアの独立を承認した。ロシアは、南オセチアとアブハジア領内に、両政府の合意のもと軍を残した。ジョージアはこれを「ロシア軍占領地域」と呼んでいる。

 

2-3-2 戦略概念

2010戦略概念は、20101119、ポルトガルのリスボンで開かれたNATO首脳会議で採択された。引き続き NATO にとって広範かつ進展した脅威が存在するという認識のもと、中核的任務として、@集団防衛、A危機管理、B協調的安全保障の3 つを定めている。特定の外的脅威を明示してはいないものの、3つの中核的任務の第一に集団防衛を挙げていることがこれまでの戦略概念とは大きく異なり、ロシアによるジョージア侵攻 NATO に与えたインパクトの大きさを物語るとともに、NATO の東方加盟国に対する安心供与の側面を色濃く反映させているといえる。

また、大量破壊兵器の脅威、国際テロに対する防衛能力の向上を挙げている点はアメリカにおける同時多発テロを反映している。

新機軸として、域外国・機関との関係強化を謳った「協調的安全保障」をNATOの中核的任務として打ち出したこと、及び、集団防衛の中核に初めてヨーロッパのミサイル防衛(MD)網の構築をすえた点が特徴である。ヨーロッパ全域を守るMD網は、イランのミサイル攻撃などへの対応を念頭に今後10年をかけて構築され、アメリカの本土防衛のためのMD網と連結して欧米全域をカバー、さらにロシアの参加も促すとしている。

2010 年戦略概念は、ロシアによるジョージア侵攻を意識した集団防衛を強調する一方で、ロシアとの関係に特段の配慮を払って いる。NATO はロシアにとって脅威とはならないことを明記し、ロシアとの真の戦略的パートナーシップを目指し、ロシアとの互恵関係を期待して行動するとしている。地理的拡大についても、「Enlargement」という従来の表現を「Open Door」に改め、パートナーシップの拡大と並べることで、NATO の地理的拡大がロシアの脅威とはならないことを強調している。

 

―「2010年戦略概念」の骨子―

イ.NATOの任務

「集団防衛」、「危機管理」及び「協調的安全保障」がNATOの中核的任務。

NATOは、いかなる国も敵とはせず、加盟国の領土及び国民の防衛が最大の責務。

ロ.集団防衛

NATOは、国民の安全に対する脅威を抑止・防護するために必要なあらゆる能力を保持(具体的内容は、以下のとおり。)。

核・通常兵力の適切な調和を維持。核兵器が存在する限りNATOは核の同盟。

弾道ミサイル攻撃から国民及び領土を防護するミサイル防衛能力を集団防衛の核として開発。ミサイル防衛に関し、ロシア及び欧州・他の大西洋地域のパートナーと積極的に協力。

大量破壊兵器(化学兵器、生物生物兵器、核兵器等)の脅威、サイバー攻撃、国際テロに対する防衛能力の更なる向上。

ハ.危機管理を通じた安全保障

NATO加盟国の領土及び国民の安全保障上の直接の脅威となり得る域外の危機・紛争に対し、可能かつ必要な場合には、危機の防止・管理、紛争後の安定化及び復興支援に関与。

ニ.国際的安全保障の促進

冷戦後、欧州の核兵器は大幅に削減されたが、更なる削減には、ロシアによる核兵器の透明性向上、核兵器のNATO加盟国から離れた位置への配置転換が必要。

既存のパートナーシップを更に発展させるとともに、平和的な国際関係に対する関心を共有する国・機関との政治対話及び実務協力を促進。

ホ.ロシアとの関係

NATO・ロシア間の協力は、戦略的に重要。ミサイル防衛、テロ対策、海賊対策を含む共通の関心分野における政治対話及び実務協力を促進。

 

2-4 冷戦後の在欧米軍の削減(参考)

NATO通常兵力の中核をなしていたのは、 米国が旧西ドイツを中心とする欧州中部に前方展開した兵力である。 冒頭で述べたように、欧州における米国の基本的な戦略目標は冷戦期を通じて一貫していた。 それは、大規模な地上部隊を欧州中部に前方展開させておくことにより、 東側諸国による侵攻を抑止するというものであった。しかし、 冷戦の終結により、 在欧米軍の存在理由であった 「共産圏」という仮想敵国も同時に消滅してしまった。 冷戦後の在欧米軍及び NATOは、 東欧諸国への関与の拡大(後述)を通じて欧州全域に安定をもたらすことを新たな任務と位置づけ、 自らの生き残りを図ってきたと言えるだろう。 しかし、2次にわたるNATO東方拡大を経て、 その任務もほぼ完了した。 バルカン半島等の一部の例外を除けば、 欧州は既に紛争の危険のない 「安定地帯」 となったと見なしてよい。 こうした状況からして、 在欧米軍に関しては、 在日米軍や在韓米軍の場合とは異なり、 その存在理由を根本的に再検討する必要が生じたのである。 一方、欧州の戦略環境が安定したことにより、 米国は在欧米軍を対テロ戦へと振り向けることが可能になった。

1991年、 米国のG.ブッシュ政権は、対テロ戦を最大の課題と位置づけ、 在欧米軍の基地・部隊の再編もその観点から行い、在欧兵力を約30万人から約15万 人へと半減 (陸軍は2個軍団5個師団から1個軍団2個師団へ、 空軍の戦闘航空団は8個から3個へと削減) することを決定した。 更にクリントン政権でもより一層の兵力削減が行われ、 また米国以外の西欧諸国も兵力削減と欧州中部からの撤兵を行った(イギリスはドイツに陸軍1個機甲師団を常駐させていたが、戦略見直しにより2020年までに撤収予定)。

20191231日現在、在欧米軍の兵力は約73,000人で、1991年から2019年までの約30年間で在欧米軍の兵力は約4分の1弱にまで削減された。 削減規模が最も大きかったのは、当然のことながら在ドイツ米陸軍である。しかし、現在も在欧米軍兵力73,000人のうち在ドイツ米軍(陸・空軍)が約半数の34,700人を占め、そのほとんどが陸軍兵力である。在欧米軍の中核は依然として在ドイツ米陸軍だと言える。 また、 人数こそ削減されたものの、 在欧米陸軍は、 旧ソ連との全面戦争を想定した冷戦時代の兵力構成 (戦車等を中心とした重装備の部隊を中核とする兵力構成) をいまだ引きずっている。

 

 

3.東方拡大

いわゆる東方拡大と呼ばれるNATO による新規加盟国の受け入れは、主に冷戦後に飛躍的に進められることとなる。冷戦期に東独領内のベルリンに存在したNATOの東側ラインは、たった四半世紀のうちに約 800マイルも東へと移動した。このような大規模な地理的拡大にともない、NATOは新規加盟国が抱く多様な脅威認識を内包することとなり、その中には、バルト三国や東欧諸国が懸念するようなロシアに対する伝統的な安全保障上の脅威認識が含まれる。また、この大規模拡大の背景には、20019月の同時多発テロが大きな意味を果たした。即ち、アメリカのアフガニスタン攻撃に際し、ロシアは中央アジア諸国の基地使用を容認し、アフガニスタンでの軍事情報支援を行ったばかりでなく、ロシア軍を警戒態勢に置かないことで最大の対米協力姿勢を示し、ロシアと欧米諸国との間の関係改善が一気に進んだのである。

 

3-1 冷戦後の NATO の地理的拡大の実績

NATOは、1949年に原加盟国12カ国(*)により結成されて以来、冷戦期を含めて8度にわたる地理的拡大を経て、2020 3月現在30カ国が加盟する同盟となっている。

新規加盟国の受け入れについて、NATO 1949年の結成時点から、必要に応じて新規加盟国へのオープン・ドア政策(Open Door Policy)をとることを想定している。

冷戦の終結にともない、NATO任務が機能的拡大を遂げていく中で、地理的拡大に関する議論も積極的になされるようになった。前述したように、19941月のブリュッセルにおける首脳会議では、欧州諸国のNATOへの新規加盟の機会は開かれているとして、条約第10 条(*)の規定を再確認している。NATO の“メインストリーム”は、地理的拡大の目的を、民主的価値および制度の拡大や欧州地域の安定に求め、協調的安全保障の立場から、ロシアとも協調することを模索するものとなっている。

1997年7月、マドリードで開催されたNATO首脳会議では、オープン・ドア政策のもと加盟申請を行った国の適格性が議論され、第一次拡大の対象をポーランド、チェコ、ハンガリーに限定することを主張する米国案が最終的に同意された。同時に、この会議では、選考に漏れたルーマニアとスロベニア、更には、バルト三国を次回の拡大の最有力候補とした。

一方、ロシアとの関係については、2002528日のNATO・ロシア首脳会議で、NATO・ロシア理事会(NRC: NATO-Russia Council)」の創設が決まった。NRCは、国際テロ対策、危機管理、大量破壊兵器の不拡散問題、軍備管理などの諸問題に関し、形式的にはNATOの最高政策決定機関となるものである。NRCは、NATO既定の拡大路線を踏襲する代償として、特にバルト三国の新規加盟を危惧するプーチン大統領に配慮し、ロシアにNATO加盟国と対等のパートナーシップを与えるものであった。もとよりロシアが討議に参加するのは国際テロ対策等の特定の問題のみであり、拒否権やNATOの集団防衛案件への討議参加権限が与えられているわけではない。そのためロシアのNATOとの関係は準加盟とも言われた。それでも、NRCを通した協力関係は一定の進展を見てきた。

 

*北大西洋条約10条(加入)

締約国は,全会一致の合意により,本条約の諸原則を促進し北大西洋地域の安全保障に貢献することができる他のいかなる欧州の国を本条約に加入するよう招請することができる。招請されたいかなる国も米国政府に加入書を寄託することにより本条約の締約国になることができる。米国政府は各締約国に当該加入書の寄託を通報する。

 

1991年冷戦終了後のNATO加盟国は、下記C以降の14ヶ国となっている。

@ 19522月 ギリシャ、トルコ

A 19555月 西ドイツ(当時)

B 19825月 スペイン

1991年 冷戦終結―

C 19993月 チェコ、ハンガリー、ポーランド

D 20043月 ブルガリア、ルーマニア、スロバキア、スロベニア、バルト三国(エスト

ニア、ラトビア、 リトアニア)

E 20094月 アルバニア、 クロアチア

F 20176月 モンテネグロ

G 20203月 北マケドニア

*原加盟12ヶ国:

アイスランド、アメリカ、イタリア、イギリス、オランダ、カナダ、デンマーク、

ノルウエー、フランス、ベルギー、ポルトガル、ルクセンブルグ

 

3-2 バルト三国の脅威認識

一方、NATOへの新規加盟を目指したバルト三国・東欧諸国は、NATOに伝統的な集団防衛としての機能を求めた。特にロシアに対する脅威認識が強いバルト三国は、ロシアという脅威に対する安全保障上の庇護をNATO に請うた。その背景には、1940年、ソ連がナチス・ドイツと合意したポーランド分割、及び、バルト三国併合に関する独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づきソ連がバルト三国へ侵攻し併合したことが挙げられる。

この事実は、現在のバルト三国とロシアにおいてそれぞれ異なる解釈がなされている。バルト三国にとってソ連の支配は、「ヒトラーとスターリンの取引」に基づく不当な支配であった。一方、ロシアにとっては、ソ連への併合はあくまでバルト三国の要望によるものであり、国際法上の規範に則りバルト三国を「ファシズムから守った」行為であると認識されている。バルト三国がNATOに加入する前のロシアの対バルト政策は、“協調的かつ対立的”であった。“協調的”側面は、エリツィン政権下において、冷戦後のソ連軍のバルト地域からの撤退が計画どおりに行われたこと、ウクライナやジョージアなどの他の旧ソ連圏国家に対する対応と比較して穏健な対応をとってきたことなどが挙げられる。一方、“対立的”側面としては、プーチン政権下におけるエネルギー資源供給ルートのバルト地域の迂回などによる経済的圧力や、バルト三国との国境線付近における軍事演習などの間接的な軍事的圧力の強化などが挙げられる。独立後のバルト三国にとって、冷戦期に社会主義体制に組み込まれていた経済と東側陣営の中での関係強化が進められた安全保障という2つの分野において、ソ連の影響から自立した新たな体制を構築することが喫緊の課題であった。

そんな中、バルト三国は、ソ連崩壊時にソヴィエト連邦を構成していた国によって結成された独立国家共同体CISCommonwealth of Independent States への加盟や安全保障関係の構築の提案を拒み、EU および NATO への加盟を目標とした。バルト三国は、安全保障の確保という観点から、プーチン政権下のロシアの対立的側面をNATO 加盟の理由としたわけである。

 

3-3 地理的拡大を巡るNATOと新規加盟国の論理のギャップ

2008年のジョージア危機を契機として、西欧諸国の対ロシア認識も徐々に変容することになるが、2010 年の NATO 戦略概念からもわかるように、NATO のメインストリームは、依然としてロシアとの協調を目指すものであった。

バルト三国・東欧諸国は、ロシアの脅威を念頭にリベラルな価値共同体としてのNATOの側面よりも、集団防衛としての機能を有するNATOの側面を重要視していた。NATOとバルト三国・東欧諸国との間に論理のギャップが存在する中で地理的拡大が進められたことは、ロシアに対する脅威認識のズレをNATOが内包することにつながった。

 

3-4 ロシアの反応

2004年にバルト三国が NATO に加盟後、ロシアはヨーロッパ通常戦力条約(CFEConventional Armed Forces in Europe Treaty)の履行停止を宣言した。また、2000年代後半に入り、アメリカが推進するポーランド、チェコへのミサイル防衛(MD)システム配備問題や、ロシアの隣国であるジョージア、ウクライナがNATO加盟を目指していることに対し、経済が復興し大国の復権を謳っていたプーチン政権は強い反発を示すようになった。20088月のジョージア危機以降、NATO諸国とロシアの関係は険悪化し、「新冷戦」と呼ばれるようになった。2002年に設置されたNRCは一時休会状態に陥ったが、20096月、危機後初の外相会合が開催され、NRCの戦略的重要性が再確認された。

しかしロシアはウクライナ、ジョージアのNATO加盟は断固阻止する構えを見せており、プーチン首相(当時)は、2008年のNATO・ロシア首脳会議で、もしウクライナNATOに加盟するなら、ロシアはウクライナ東部(ロシア人住民が多い)とクリミア半島を併合するためにウクライナと戦争をする用意があると公然と述べた。そして、プーチンの言葉通りウクライナにおいて親欧米政権が誕生したのを機に、2014年、クリミア半島及びウクライナ東部でロシアが軍事介入を行い、ウクライナ東部では紛争となっている。

 

 

4.ウクライナ危機後の NATO の変容

4-1 ロシアに対する脅威認識の増大

20143月のクリミアの併合を含むロシアの強硬的な行動は国際社会を震撼させた。

NATO にとって、ウクライナ危機は、NATO のロシアに対する認識を全面的に見直させるきっかけとなった。これまで述べてきたように、西欧諸国を中心とするNATOの所謂メインストリームの対ロシア認識は、NATO・ロシア間の協調を前提としてきた。しかし、ウクライナ危機におけるロシアの行動を目の当たりにして、メインストリームをはじめとするNATO加盟国は、バルト三国やポーランドが従来から主張するロシアに対する脅威認識の正当性を認識する機会となった。ウクライナ危機後のNATO は、東方地域における軍事的プレゼンスの増強など、ロシアを脅威と捉えることに一定のコンセンサスを得る形で集団防衛を重視する側面がみられる。

 

4-2 NATOの対応

4-2-1 東方加盟国に対するコミットメントの強化

20149月のウェールズサミットにおいて、NATOは、ウクライナ危機におけるロシアの行動にともなう「東の脅威」や、中東や北アフリカの不安定化による「南の脅威」といった多方向の脅威に対応できるよう、即応性行動計画(RAPReadiness Action Plan)を策定した。201525日のNATO防衛相会談においては、バルト三国、ポーランド、ルーマニア、ブルガリアの6カ国から成る多国籍の指揮命令機構(NFIUsNATO Force Integration Units)の設立が決定された。NATOの同盟としての性質は、ウクライナ危機を転換点として、集団防衛を重視する方向へシフトしたと考えられる。

 

4-2-2 軍事演習の変容

2008 年のジョージア危機以降、NATO はロシアの侵攻からバルト三国を防衛することに 焦点をあてた演習を多く実施している。一方でロシアも NATO と境を接するベラルーシとの演習や、カリーニングラードにおける軍事演習の実施を活発化している。

ウクライナ危機以降のNATO とロシアの双方の軍事演習の地理的な軸は、バルト三国、ポーランド、ベラルーシを中心とするNATOとロシアの境界線地域にある。この地域の中でも、NATOの戦略上特に重要な地域の1つに、ポーランドにおけるスバルキ・ギャップ(Suwalki Gap下図)の存在が挙げられる。カリーニングラードとベラルーシに挟まれたこの地域は、ロシアにとって軍事戦略上の重要なターゲットとして捉えられている。NATOにとっても、バルト三国へのアクセスを遮断されぬよう、この地域の防衛は重要な課題である。したがって、ポーランドにおける軍事演習の強化は、ロシアを対象とした「集団防衛の強化」を目的としていると考えてよい。また、NATOの軍事演習の規模についても、ウクライナ危機以降は拡大の傾向にある。20166月に実施されたポーランドでのNATO の軍事演習「ANAKONDA」は、約31,000人を動員し、NATO にとって冷戦後最大規模の演習となった。この時期に冷戦後最大となる規模の演習を行った目的として、ウクライナ危機を背景に、ロシアに対する抑止というメッ セージをNATO が発信したかったことは明らかである。NATOの軍事演習は、従来から能力構築、インターオペラビリティの向上、危機管理、災害救難など多様な目的によるものがあったが、ウクライナ危機以降は、集団防衛の強化と言う側面が明らかである。

 

4-3 バルト三国の対応

4-3-1 バルト三国の脅威認識

ウクライナ危機を受けて、バルト三国はロシアを強く非難し、その脅威認識のレベルを一段と高めた。その理由は、ロシアと国境を接しているという地政学上の脅威もさることながら、とりわけロシア系住民を多く抱える国々では、ロシアがウクライナ危機で行ったとされるハイブリッド戦争(*)に対する警戒が頂点に達した。特に、エストニア、ラトビアは、人口の約4分の1に相当するロシア系住民を抱えており、ロシアの「自国民保護」という名目による介入の根拠となりうるため、特に深刻な不安定要因となった。実際に、プーチン大統領はクリミア併合を、クリミアに存在するロシア系住民の多さで正当化した。

因みに、バルト三国にロシア系少数民族が存在することとなった要因は、第二次世界大戦後のソ連支配下における工業化の過程で、各国がソ連からの移民を大量に受け入れたことである。

ハイブリッド戦争Hybrid warfare

近年、注目されるようになった言葉で、そのきっかけとなったのは、20142月から3月にかけて、ロシアがウクライナ領クリミア半島を占拠し併合してしまったことである。

ロシアのウクライナ侵攻は、サイバー攻撃によっていつのまにか始まり、気づいた時にはウクライナ軍はすでに無力化されていた。ロシアはほとんど無血で目的を達成し、しかも自国の関与をあくまで否定している。ハイブリッド戦争の正式な定義はないが、「広範な公然・非公然の諸手段が高度に統合された計画の下で使われる戦争。正規軍のほか、特殊部隊や民兵を駆使し、サイバー攻撃や宣伝工作、経済的圧力など各種手法を組み合わせ、敵対する国家を不安定化させ、社会を麻痺させるための重層的な試みを含む戦争」と考えられている。実は90年代にはすでにハイブリッド戦争の有用性がロシアにおいて広く共有され、旧ソ連領域で多々用いられてきた。実際、ロシアのハイブリッド戦争が注目されたのはウクライナ危機であるが、ウクライナと同様に親欧米路線をとってきたジョージアに対してもロシアは様々なかたちでハイブリッド戦争を展開してきた。ロシアはハイブリッド戦争をジョージアで練習し、ウクライナで花咲かせたという議論もあるくらいである。

 

4-3-2 バルト三国の対応

バルト三国はNATO加入後、NATOの集団防衛に貢献できる能力の獲得を目指し軍事力強化を図ってきた。その主たる狙いは、NATOに貢献する意志を示すことによりバルト三国に対するNATO のコミットメントを確保することにあった。即ち、自国の領域防衛のための能力を向上させることよりも、外征任務への対応能力を向上されることでNATOへの貢献を優先させてきた。しかし、ウクライナ危機以降、自国の防衛という観点においても、バルト三国は軍備の増強がみられる。バルト三国では、職業軍人から成る軍隊とは別に、地域社会の有志などにより組織された領土防衛軍(TDFTerritorial Defense Forces)が存在しており、正規軍の増強とともに、TDFもその規模が拡大されることが見込まれている。バルト三国における TDFの拡充は、主としてハイブリッド戦への対応を意図している。

 

 

5.集団防衛への回帰か? 集団防衛の概念を変更か?

ウクライナ危機を転機としたNATOの変容は、集団防衛への単純な回帰ではないと考えられる。NATOの集団防衛にとって求められる能力が、目にみえる大きな脅威から目にみえない小さな脅威まで、そして、軍事的領域から非軍事的領域までの幅広い脅威に対して適用可能なものへと変化しているからだ。このような集団防衛の概念的変化の兆候は、2010年の戦略概念において、サイバー攻撃やテロなどを含む脅威が、NATOの抑止と防衛の重要な対象として規定されたことからも伺える。そして、ウクライナ危機によりハイブリッド戦の脅威が明確に認識された結果、NATO集団防衛の対象が非伝統的な分野へと加速度的に拡大した。即ち、ウクライナ危機後のNATO では、集団防衛の対象の拡大や、求められる機能の多様化などによる集団防衛の概念的変化がみられる。

 

5-1 ウクライナ危機が「2つの拡大」に及ぼした影響

前述したように、これまでのNATOの機能的拡大は、基本的にNATO における集団防衛の重要性を相対的に低下させた一方、地理的拡大は、新規加盟国の安全を保証すると共に、NATOへの統合により民主的価値および制度の拡大が進むとして、新規加盟の扉はすべての国に開かれているとの方針を維持して来た。しかし、ウクライナ危機後、機能的拡大については、集団防衛機能にプライオリティをシフトさせてきたと言える。また、地理的拡大についても、NATOがウクライナやジョージアの加盟招請を目指すなら、ロシアは両国のNATO加盟を断固阻止するとしていることからも、NATOは核戦争の可能性を含めてロシアの脅威と正面から向き合わなければならなくなっている。ウクライナ危機後のNATOの地理的拡大は、ジョージアのような国の加盟に慎重な姿勢をとる方向に向かっている。

 

5-2 「回帰」としての集団防衛と「変容」としての集団防衛

専門家の中には、ロシアとの協調を前提としているNATOの戦略を抜本的に見直し、これまで集団防衛よりも重視されてきた危機管理や集団安全保障としての機能、域外任務などをNATOの中核的任務からダウングレードさせて、軍事力中心の集団防衛の機能へ「回帰」すべきだとする意見もある。

他方、NATOの集団防衛の概念的変化については、NATOの集団防衛の対象となるロシアの戦略に目を向けることで知ることができる。ロシア軍の戦略的目標は近年、相手国の撃破よりもむしろ、相手国を不安定化させることに重点がおかれている。NATO にとって、伝統的な軍事的脅威となるはずのロシア軍という組織の行動方針自体が、民間組織等と統合されたハイブリッド戦を重視する方向へと変容していることは、新たな脅威(ハイブリッド戦)の中に、伝統的な脅威の要素を取り込むことを意味する。ロシア軍の目標が変化した背景に、NATO5条任務の適用対象とならない手段において、相手に脅威を与え影響力を行使する目的があるとすれば、NATO5条の適用範囲を拡大するか、あるいは非5 条任務の適用によりロシアの軍事的脅威に対抗することが求められる。前者は集団防衛の概念的拡大を意味するであろうし、後者を選択した場合についても、非5 条任務がより一層5条任務に近い性質を帯びることとなり、いずれにせよ集団防衛と安定促進の任務との境界は曖昧なものとなる。これは、従来の集団防衛への「回帰」とは異なる作用である。つまり、ウクライナ危機後のNATOは、単に集団防衛の機構へと「回帰」しているのではなく、冷戦後から続くNATO の変容の過程の延長線上で新たな「変容」をしつつあるのであろう。

 

 

6.おわりに(日本との関係)

地理的・歴史的な要因もあって我が国とNATOの連携は疎遠なものであった。それでも自衛隊では在日米軍が使用する武器・弾薬の相互運用性を確保するために、小銃NATOを使用しているほか、兵器に様々なNATOとの共通規格を採用している。近年では、2005年にNATO事務総長が訪日、また2007年には時の安倍首相が欧州歴訪の一環としてNATO本部を訪問しており、人的交流の面でも新たな関係が構築され始めている。この時、安倍首相が来賓として演説を行った北大西洋理事会NAC : North Atlantic Council)では、それに続くNATO加盟各国の代表との会談の中で主要国が軒並み日本との緊密な協力関係を構築することに賛意を表したことが注目された。これ以降、NACの下部組織である政治委員会と自衛隊との非公式な協議が開催されたり、ローマにあるNATO国防大学の上級コースへ自衛官が留学するようになったり、NATOの災害派遣演習へ自衛官がオブザーバーとしての参加するようになったり、実務レベルでの提携も行われるようになった。20145月6にも、安倍首相が欧州歴訪の際にNATOラスムセン事務総長と会談。海賊対策のためのNATOの訓練に自衛隊が参加することや国際平和協力活動に参加した経験を持つ日本政府の女性職員をNATO本部に派遣することなどで合意。さらに日本とNATOとの間で具体的な協力項目を掲げた「国別パートナーシップ協力計画」(IPCP)に署名した。

またNATOはアフガニスタンにおける活動の中で、現地の日本大使館が行っている人道支援や復興活動に注目しており、軍閥の武装解除を進める武装解除・動員解除・社会復帰プログラムの指導者的立場にある日本との連携を模索している。さらには、日本をNATOに加盟させようとする動きもある。これはNATOを北大西洋地域に限定せずに世界規模の機構に発展させた上で、日本のほかオーストラリアシンガポールインドイスラエルを加盟させるべきだという意見である。20185月、北大西洋理事会は、ブリュッセルの在ベルギー日本大使館にNATO日本政府代表部を開設することに同意。201871日、NATO日本政府代表部を開設した。

 

                                                 以上

linel01

 

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