2.「戦略概念」から伺われる脅威認識と戦略の変化
2-1 1991年戦略概念
2-1-1 脅威認識
東西冷戦の終結により、NATO にとっての大規模かつ差し迫った潜在的脅威は消滅したとの認識を示しつつも、一方で、将来的な不確実性や安全保障上のリスクは残っているとし、
その例として、中欧・東欧諸国が直面している国内における経済・社会・政治上の困難や、民族・領土紛争などにより引き起こされる地域の不安定化を挙げている。
2-1-2 戦略
多種多様で予測が困難なリスクに対応することをNATO の課題として挙げることにより、同盟の存在意義を示している。他方、軍事的観点からは、必要に応じて前方防衛におけるプレゼンスを縮小し、柔軟反応戦略のコンセプトを修正し核への依存を低下させ、NATO 軍の全体としての規模やレディネス態勢を削減させるとしている。このことから、大規模部隊の配備による伝統的な集団防衛重視の姿勢から、展開力、機動力、柔軟性の高い小規模部隊により、多様化する任務に適切に対応できる体制へと変化しようとする試みが伺える。
2-2 1999 年戦略概念
2-2-1 脅威認識
1991年戦略概念では抽象的であったNATO にとってのリスクを、1999 年戦略概念では約10 年の実践を経てより具体化させたことが特徴である。即ち、NATO に対する大規模な侵略の可能性は極めて低いものの、NATOの周辺における経済危機、民族・宗教・領土の紛争、人権の侵害、国家の破たんなどの地域的危機を含む予測困難な多様な軍事的、非軍事的リスクをNATOの潜在的脅威として挙げている。
2-2-2 戦略概念
NATOの潜在的脅威となり得るリスクの拡大を防止するためには、域外における危機管理任務が必要であるとの認識から、1995年8月にはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へ、1999年3 月にはコソボ紛争へ介入した。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで1992年から1995年まで続いた内戦で、1995年8月、NATO加盟諸国が行ったセルビア陸軍に対する空爆によって停戦となった。また、コソボ紛争は、ユーゴスラビア内戦の過程で、1998年2月から1999年3月にかけて行われたユーゴスラビア軍及びセルビア人勢力と、コソボの独立を求めるアルバニア人の武装組織コソボ解放軍との戦闘である。NATOはコソボのアルバニア人支援と言う人道上の理由から本紛争に介入、1999年3月24日から6月10日にかけて航空攻撃を行った。この作戦にはNATO13カ国の空軍機が参加した。
NATOはこの両任務をNATOの本来任務として正当化し、危機管理任務を正式任務化すると言う機能的拡大を図った。この機能的拡大を欧州地域全体の平和・安全・秩序の維持へ貢献するものし、軍事力の規模についても、集団防衛に必要最小限のレベルを維持しつつ、必要に応じて域外の配備も含め十分なプレゼンスを確保するとしている。
この期間、更に注目されることは、1994年のブリュッセル首脳会議で、各国首脳がNATOは基本的に加盟にオープンであることを再確認し、加盟希望国との新しい関係を築くために、「平和のためのパートナーシップ
(PfP: Partnership for Peace)」 を創設したことである。これにより、NATOは ロシアを脅威としてではなく協調すべきパートナーとして位置付けるとともに、NATO
の地理的拡大の第一歩を踏み出したことである。
2-3 2010年戦略概念
2-3-1 脅威認識
2010年戦略概念は、2001年のアメリカにおける同時多発テロ、2008年のジョージア危機などのNATO を取り巻く安全保障環境の変化を踏まえて策定された。
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同時多発テロ
2001年9月11日、アメリカで、イスラム過激派テロ組織アルカイダによる4つのテロ攻撃が同時多発的に実行された。この事件を契機として、国際テロ組織の脅威が世界的に認識されるようになり、アメリカはテロとのグローバル戦争を標榜して、有志連合と共にアルカイダやアルカイダに支援を行った国への報復を宣言した。これがアフガニスタン攻撃、イラク戦争へ繋がった。
アフガニスタン攻撃については、米同時多発テロ後、首謀者とされたアルカイダ指導者オサマ・ビンラディン容疑者の引き渡しにアフガニスタンのタリバン政権が応じなかったため、同年10月7日アメリカはイギリスと共にアフガニスタンへの空爆を開始した。NATOは10月2日、北大西洋条約第5条(*)の正式発動を決めており、組織全体としてはアメリカと共同の軍事行動は行わなかったものの、イギリスが空爆に参加したほか、関係国が米軍機の領空通過を認め、フランスがインド洋へフリゲート間と補給艦の2隻を派遣して米艦艇の補給と護衛を支援するなどしている。同年末にタリバン政権が崩壊、国家間の「戦争」は終結したが、2005年頃からタリバンの活動が活発化してテロや戦闘が拡大したため、その後も対テロ戦争は継続した。NATOは対テロ戦争には賛同しつつも、各国が自主的に参戦するに留め、新生アフガン軍の訓練にNATOの教官が参加することで協力した。2005年にはアフガニスタンでの軍事行動に関する権限の一部が、イラク戦争で疲弊したアメリカ軍からNATOに移譲され、NATO軍は初の地上軍による作戦を行うに至った。2006年7月にはアフガンでの権限を全て委譲され、NATO加盟国以外を含む多国籍軍である国際治安支援部隊(ISAF)を率いることとなった。
*北大西洋条約第5条 (集団防衛)
欧州又は北米における1または2以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなす。締約国は,武力攻撃が行われたときは,国連憲章の認める個別的又は集団的自衛権を行使して,北大西洋地域の安全を回復し及び維持するために必要と認める行動(兵力の使用を含む。)を個別的に及び共同して直ちにとることにより,攻撃を受けた締約国を援助する。
一方、イラク戦争については、同時多発テロ以降,アメリカは、イラクの大量破壊兵器保有の可能性を危険視して,サダム・フセイン政権転覆を目的とした軍事行動への動きを強めた。イラクの大量破壊兵器保有を主張して軍事行動を訴えるアメリカ、イギリス及びアメリカに追従するポーランドなど東欧の新加盟国に対し,フランスとドイツなどの旧加盟国が強硬に反対したために足並みは乱れ内部分裂した。2003年3月20日,米・英軍は国連での合意がないまま対イラク攻撃を開始。4月9日にアメリカ軍がバグダッドを陥落させ,フセイン政権は事実上崩壊した。サダム・フセインは同
2003年12月にアメリカ軍に逮捕され,2006年末にイラク特別法廷で死刑宣告を受け処刑された。
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ジョージア(旧称グルジア)危機
ジョージア危機は、2008年、ジョージアとロシア連邦間の戦争で21世紀最初のヨーロッパの戦争とされる。ジョージアもロシアもともに1991年までは同年に解体したソヴィエト連邦を構成する15共和国のうちの2国だった。ジョージアは1991年のソ連崩壊以来、ロシア支配からの脱却を図り、欧米に接近する政策をとってきた。
ジョージア国内には同政府の支配が及ばないロシア寄りの南オセチアとアブハジアの2地域があり、この地域をロシアに帰属させるか否かがジョージアとロシア連邦間で以前から争われ、2008年の夏にはかなり緊張が高まっていた。同年8月7日の午後、ジョージア軍は南オセチア地域へ陸軍、空軍を投入して大規模な軍事攻撃を行った。ロシアはジョージアの動きを受けて南オセチア支援の軍を差し向け、ジョージア領内への攻撃を開始した。この後5日間にわたる激しい戦闘の結果、ジョージア軍は南オセチア及びアブハジアから撤退させられた。当時EU理事会議長国であったフランスの仲介で8月12日に休戦提案が行われ両国共に署名に応じた。8月26日、ロシアは国際的にはジョージア領とされている南オセチアとアブハジアの独立を承認した。ロシアは、南オセチアとアブハジア領内に、両政府の合意のもと軍を残した。ジョージアはこれを「ロシア軍占領地域」と呼んでいる。
2-3-2 戦略概念
2010年戦略概念は、2010年11月19日、ポルトガルのリスボンで開かれたNATO首脳会議で採択された。引き続き NATO にとって広範かつ進展した脅威が存在するという認識のもと、中核的任務として、@集団防衛、A危機管理、B協調的安全保障の3 つを定めている。特定の外的脅威を明示してはいないものの、3つの中核的任務の第一に集団防衛を挙げていることがこれまでの戦略概念とは大きく異なり、ロシアによるジョージア侵攻が NATO に与えたインパクトの大きさを物語るとともに、NATO の東方加盟国に対する安心供与の側面を色濃く反映させているといえる。
また、大量破壊兵器の脅威、国際テロに対する防衛能力の向上を挙げている点はアメリカにおける同時多発テロを反映している。
新機軸として、域外国・機関との関係強化を謳った「協調的安全保障」をNATOの中核的任務として打ち出したこと、及び、集団防衛の中核に初めてヨーロッパのミサイル防衛(MD)網の構築をすえた点が特徴である。ヨーロッパ全域を守るMD網は、イランのミサイル攻撃などへの対応を念頭に今後10年をかけて構築され、アメリカの本土防衛のためのMD網と連結して欧米全域をカバー、さらにロシアの参加も促すとしている。
2010
年戦略概念は、ロシアによるジョージア侵攻を意識した集団防衛を強調する一方で、ロシアとの関係に特段の配慮を払って
いる。NATO はロシアにとって脅威とはならないことを明記し、ロシアとの真の戦略的パートナーシップを目指し、ロシアとの互恵関係を期待して行動するとしている。地理的拡大についても、「Enlargement」という従来の表現を「Open Door」に改め、パートナーシップの拡大と並べることで、NATO の地理的拡大がロシアの脅威とはならないことを強調している。
―「2010年戦略概念」の骨子―
イ.NATOの任務
「集団防衛」、「危機管理」及び「協調的安全保障」がNATOの中核的任務。
NATOは、いかなる国も敵とはせず、加盟国の領土及び国民の防衛が最大の責務。
ロ.集団防衛
NATOは、国民の安全に対する脅威を抑止・防護するために必要なあらゆる能力を保持(具体的内容は、以下のとおり。)。
- 核・通常兵力の適切な調和を維持。核兵器が存在する限りNATOは核の同盟。
- 弾道ミサイル攻撃から国民及び領土を防護するミサイル防衛能力を集団防衛の核として開発。ミサイル防衛に関し、ロシア及び欧州・他の大西洋地域のパートナーと積極的に協力。
- 大量破壊兵器(化学兵器、生物生物兵器、核兵器等)の脅威、サイバー攻撃、国際テロに対する防衛能力の更なる向上。
ハ.危機管理を通じた安全保障
NATO加盟国の領土及び国民の安全保障上の直接の脅威となり得る域外の危機・紛争に対し、可能かつ必要な場合には、危機の防止・管理、紛争後の安定化及び復興支援に関与。
ニ.国際的安全保障の促進
冷戦後、欧州の核兵器は大幅に削減されたが、更なる削減には、ロシアによる核兵器の透明性向上、核兵器のNATO加盟国から離れた位置への配置転換が必要。
既存のパートナーシップを更に発展させるとともに、平和的な国際関係に対する関心を共有する国・機関との政治対話及び実務協力を促進。
ホ.ロシアとの関係
NATO・ロシア間の協力は、戦略的に重要。ミサイル防衛、テロ対策、海賊対策を含む共通の関心分野における政治対話及び実務協力を促進。
2-4 冷戦後の在欧米軍の削減(参考)
NATO通常兵力の中核をなしていたのは、 米国が旧西ドイツを中心とする欧州中部に前方展開した兵力である。
冒頭で述べたように、欧州における米国の基本的な戦略目標は冷戦期を通じて一貫していた。 それは、大規模な地上部隊を欧州中部に前方展開させておくことにより、 東側諸国による侵攻を抑止するというものであった。しかし、
冷戦の終結により、 在欧米軍の存在理由であった 「共産圏」という仮想敵国も同時に消滅してしまった。 冷戦後の在欧米軍及び
NATOは、 東欧諸国への関与の拡大(後述)を通じて欧州全域に安定をもたらすことを新たな任務と位置づけ、 自らの生き残りを図ってきたと言えるだろう。
しかし、2次にわたるNATO東方拡大を経て、 その任務もほぼ完了した。 バルカン半島等の一部の例外を除けば、
欧州は既に紛争の危険のない 「安定地帯」 となったと見なしてよい。 こうした状況からして、 在欧米軍に関しては、 在日米軍や在韓米軍の場合とは異なり、 その存在理由を根本的に再検討する必要が生じたのである。
一方、欧州の戦略環境が安定したことにより、 米国は在欧米軍を対テロ戦へと振り向けることが可能になった。
1991年、 米国のG.ブッシュ政権は、対テロ戦を最大の課題と位置づけ、
在欧米軍の基地・部隊の再編もその観点から行い、在欧兵力を約30万人から約15万
人へと半減 (陸軍は2個軍団5個師団から1個軍団2個師団へ、 空軍の戦闘航空団は8個から3個へと削減) することを決定した。 更にクリントン政権でもより一層の兵力削減が行われ、 また米国以外の西欧諸国も兵力削減と欧州中部からの撤兵を行った(イギリスはドイツに陸軍1個機甲師団を常駐させていたが、戦略見直しにより2020年までに撤収予定)。
2019年12月31日現在、在欧米軍の兵力は約73,000人で、1991年から2019年までの約30年間で在欧米軍の兵力は約4分の1弱にまで削減された。 削減規模が最も大きかったのは、当然のことながら在ドイツ米陸軍である。しかし、現在も在欧米軍兵力73,000人のうち在ドイツ米軍(陸・空軍)が約半数の34,700人を占め、そのほとんどが陸軍兵力である。在欧米軍の中核は依然として在ドイツ米陸軍だと言える。 また、 人数こそ削減されたものの、
在欧米陸軍は、 旧ソ連との全面戦争を想定した冷戦時代の兵力構成 (戦車等を中心とした重装備の部隊を中核とする兵力構成) をいまだ引きずっている。
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