上司は神雷部隊・桜花隊分隊長

 

                     会員 水町博勝

 

 

一、  はじめに

当顕彰会に入会していなかったら「人間爆弾」と言われた特攻の為に開発された「桜花」の分隊長湯野川守正海軍大尉を知る由もなかった。

会報「特攻」に鎌倉建長寺「桜花の碑」慰霊祭の記事の中で湯野川氏のお名前を見てもしかしたら、小生航空自衛隊に勤務していた時上司であった湯野川群司令ではないか、軍歴を知らなかったので、驚きの一瞬でした。何時かお目にかかり、お話を直接伺いたかったが、既に二〇一九年七月二十日鬼籍となられました。

 初めてお会いしたのは五十一年前、小生レーダー基地に於いて戦闘機を誘導する要撃管制官として勤務中、湯野川一等空佐が第四十四警戒群司令兼峰岡山分屯基地司令として着任されました。

当時は自動警戒管制組織(BADGE)の建設中、企業の立地に合う首都圏に近い房総のレーダー基地が中心となって、探知した航跡の伝送、要撃誘導計算、地対空データーリンク等計算機処理を試験運用し、完成した時期でした。その後米国関連メーカーはこの成果を北米・NATO等のシステムに進展させています。

今日本のシステムは指揮統制機能を強化したJADGEシステムとなり、陸・海の指揮所とも連接し、防衛力強化のミサイル防衛にも対応しようとしています。特攻作戦時の日本の防空とは雲泥の差で、全国のレーダー基地は朝鮮戦争後、駐留米軍が設置した場所そのまま、初期の選定が的確であったからです。器材は技術進歩に伴い更新しています。

当時私共独身幹部は、二十四時間運用を中断せず、最新の装備をモノにして意気軒昂、単身赴任の群司令と一献をご案内し、快く私共の一軒家の下宿に来られ、自動運用の苦労話で歓談した事。

また土曜の夕刻夜勤上番の為庁舎前に集合中、音楽評論家の湯川れい子さんが基地を訪問され目の前に、司令が出迎えられ、妹さんと知って驚いた事。温厚で穏やかに話をされたスマートな司令が今も思い出されます。

群司令はその後空将補に昇任北部航空警戒管制団司令兼ねて三沢基地司令、航空実験団司令(岐阜基地)を経て航空自衛隊を退官されました。

 

二、会誌記事から桜花特攻を検索

会報「特攻」一〇〇号刊行記念「会報総索引」から、航空特攻(対艦船)の項目の中に桜花特攻隊を見つけることが出来、桜花に関する記事はこれのみでした。

文字の書かれた紙

自動的に生成された説明

記事は二〇〇一年(平成十三年)四月二二日水交社にて「海軍神雷部隊桜花特攻隊について」の座談会を企画された田中賢一編集長が纏めたものです。

海兵七十一期神雷部隊桜花隊分隊長湯野川守正元海軍大尉から往時の話を、戦後の若者が聞く座談会形式により、会報四八号と四九号に連載されて、私の伺いたかった事が語られて貴重な証言です。興味のある方は当顕彰会のホームページのバックナンバーからご覧になれます。

 

三、湯野川元海軍大尉の経歴等

 大正十年(一九二一年)米沢藩士の血を引く海軍大佐の湯野川忠一の次男として勤務先の佐世保で生まれました。連合艦隊司令長官山本五十六大将の妻禮子さんは、父忠一さんのいとこにあたる。

幕末の戊辰戦争では米沢藩と越後長岡藩が同盟関係にあり、長岡出身の山本と姻戚関係になったからという事です。

司令との宴席でご出身はと伺い「山形の作り酒屋」と言われた故郷を思い出す。

昭和十四年東京の私立麻布中学校(当時も東大・海兵への進学校)から海軍兵学校七十一期生として入学、卒業後戦艦「伊勢」に乗艦、軽巡洋艦「阿賀野」水雷士としてソロモン諸島で戦い、四十期飛行学生に転換、練習機課程後、大分海軍航空隊、筑波海軍航空隊にて訓練し零戦搭乗員となりました。

兵学校出身は部隊の指揮官、予科練・予備学生出身者を率いて戦わなければならない。敵機は性能・技量も優秀なのと戦わなければならない。零戦が四対一なら戦って良い、三対一で良かったのは昭和十七年頃まで、十八年中旬F―4シコルスキー、十八年後半F―6グラマンが出て来て強かった状況は知っているし、ソロモン帰りの教官も同じで、教育期間の短い部下を連れて敵と戦って、先輩以上の働きをして勝てると私は思わなかった。よし私は沢山まとめて向うの船を沈める方に回ろうと。

湯野川氏の説明では、筑波空にて昭和十九年八月中旬、開発が進められている「必死必中の新兵器」の搭乗員募集が行われ、「望」「不望」の選択肢から、葛藤の末「熱望」の意志を上司に伝えた。

十一月六日付新兵器「桜花」を主戦兵器とする第七二一航空隊、通称神雷部隊(桜花隊・母機一式陸攻隊・直接掩護零戦隊)に転勤を命ぜられ、同日茨城県の百里原基地に到着すると、七二一空本部は茨城県神栖町神之池基地に移動していた。又移動して、滑走路二千三百メートルと砂浜で桜花の訓練が始まる。

飛行機の羽

自動的に生成された説明桜花

諸元全長6m 幅約5m 高さ1`1m

全重2、270s 徹甲爆弾1200s

水平速度648q/h 航続距離37q

個体ロケット推力300s×3

桜花の訓練は、最初は零戦でエンジンを絞り桜花の滑空コースを体得する。その後母機一式陸攻懸架桜花のそり付き練習機K1の操縦席に移り、風防を閉め、各所を操作、異常が無ければ『・❘❘❘・と電信音で母機に合図する。高度3500m投下のタイミングが来ると、『・・・❘・』と信号が届き終わると同時にK1は切り離される。操縦は、機首を下げ時速250ノット(450q)位の高速で操縦桿を操作すると、舵の効きが良く操縦し易かった。着陸は砂浜に滑空コースからそりで着陸する。桜花の飛行はこの一回で体得する。訓練は三百名の内三名が事故死等で失敗した。

 

四、桜花隊の編成・展開と実戦

 訓練を終え昭和十九年十一月二十五日桜花隊の分隊編成が行われた。

第一分隊長 平野 晃  大尉   (後に元航空幕僚長)

第二分隊長 三橋謙太郎 中尉

第三分隊長 湯野川守正 中尉

第四分隊長 林 富士夫 中尉

湯野川分隊長は分隊員五十三名を預かる。

十二月一日中尉の三名は大尉に昇進し、同日付で二・三分隊長は隊司令岡村大佐と一緒に連合艦隊司令長官豊田大将から内示を受けた。「フィリピン・レイテ島沖の敵艦隊への体当たり」予定は十二月二十三日、その為七二一空桜花整備員十一名は先発した。

桜花は空母三隻で輸送されたが、空母「信濃」に桜花五十機、空母「雲龍」に三十機を積載、米潜水艦に撃沈される。空母「龍鳳」は目的地を台湾の基隆に変更し、五十三機輸送したが、桜花百三十三機をフィリピンへ運べず、作戦は中止になり、先発の整備員は陸上戦闘で全員戦死した。 

 

桜花を懸下した一式陸攻

飛行機が飛んでいる戦闘機

自動的に生成された説明

二十年三月十八日大分県宇佐基地に展開していた湯野川率いる桜花隊に出撃命令が下る。母機の第七〇八飛行隊長足立少佐と出発準備を完了し、攻撃方法の打ち合せも終わり別杯の用意を整えようとしていた時、敵艦上攻撃機の奇襲攻撃を受けた。執拗な銃爆撃に飛行場に並んだ一式陸攻十八機の大半が地上で焼失した。悔しく悪夢のような光景に、よし初出撃に行くぞと覚悟を決めたところで、悔しかったと分隊長は回想した。

 

五、母機一式陸攻・桜花初出撃

 一九三〇年代の軍縮条約による戦艦・巡洋艦・空母勢力を補うため、日本海軍は、陸上基地から長距離攻撃(雷撃・爆撃)の開発に取り組み一式陸攻が生まれた。

太平洋戦争初期は台湾からフィリピンの米陸軍基地を攻撃し爆撃機B-17を壊滅し、マレー沖英戦艦「プリンスオブウェールズ」巡洋艦「レバルス」を撃沈させる活躍をした。

然しガダルカナル島の戦いで制空権を喪失、昭和十八年三月十八日山本五十六大将は乗機の一式陸攻は、援護機も無く撃墜されソロモン諸島で戦死された。

桜花の母機として使用すると、桜花の自重2,270sは一式陸攻の爆装1トンから800sを遥かに超過、航続距離は30%減、巡航速度314q/hの10%減、更に運動機能低下をもたらす。

従って桜花搭載機には4倍の護衛戦闘機を付ける計画を軍令部は持っていた。

搭乗員は7〜8人、操縦士、副操縦士、機上整備員、射爆員、主偵察員、副偵察員、電信員、機長・編隊指揮官です。

桜花隊の最初の出撃は三月二十一日、鹿屋から二分隊長同期の三橋大尉、長崎大村に退避していた野中少佐の陸攻隊が鹿屋に進出して合流、陸攻十八機・隊長以下一三五名、懸架桜花十五機・分隊長以下一五名、零戦は直接掩護の十九   機と間接掩護三十四機で計五十三機(原則では六十機以上)、ところが連日の銀河・彗星の特攻出撃援護で参戦した翌日、間接掩護機は二十三機が離陸間もなく故障で離脱、零戦の直接・間接援護機は三十機になってしまった。(余談ですが、以前世田谷山観音寺の月例法要時、野口剛氏から、直接掩護でこの時出撃し、後方上空より不意に敵機の攻撃を受け、次々と零戦掩護機が撃墜された。速度の違いによる援護の難しさを痛感し、自分は被弾し島に不時着した体験を伺いました。証言です)

桜花搭載機は全機撃墜され初攻撃は失敗に終わった。戦死者は桜花隊長以下十五名、陸攻隊長以下百三十五名、零戦隊十名計百六十名、に及びました。

湯野川氏は母機の歴戦の隊長野口五郎少佐の部屋を尋ねよく話を聞いた。

隊長は有名な隊長で、お兄さんは二・二六事件の野中四郎陸軍大尉、革新派の逸材で、その弟さんは実戦の指揮官でピカ一でした。「俺は夜間雷撃の指揮官をやらしてもらいたい、桜花の作戦は嫌だ」とはっきり言われ、私桜花の分隊長は大変困った。こういう人は大小二百数十回の戦いをやってこられたからそれが言える。今頃この作戦は使えないとも言えなくて「夜間艦隊雷撃をやりたい」を漏らし、母機の速力が落ちるとか、援護戦闘機の兵力が少ないとか、運用面が不安だらけの現場であった。

出撃命令が出た後、神雷部隊司令岡村大佐は五航艦参謀長横井大佐に「もっと戦闘機を出せませんか?」、幕僚長は「司令が五十五機で不安であれば」中止も止むを得ない、五艦司令長官宇垣中将に出撃中止を進言した。宇垣中将は岡村大佐に「この状況下で、若しも使えないものならば、桜花を使う時が無い、と思うがどうかね」と促され岡村司令は「やります」と作戦室を後にした。

岡村大佐は野中少佐に「今日は俺が行く」危険の高い任務は指揮官が先頭に立つべく言ったが、野中少佐は「お断りします。そんなに私を信用できませんか」

と拒否され、一度言った事を撤回しない隊長を知っていて、出撃を譲ったと岡村大佐は後に回顧している。

桜花への期待を背負い、鼓舞して不安を消し、出撃の結果が得られなかった。

その後、沖縄決戦の菊水作戦で桜花出撃は九回行われた。桜花の損失は五十五機戦死も五十五名、一式陸攻桜花母機七十八機出撃、未帰還五十二機その搭乗員三百六十五名が戦死した。

戦果は駆逐艦一隻撃沈、二隻大破、四隻小破であった。

 

六、本来の神雷部隊と終戦

 三月二十一日以降陸攻は殆どやられて、協同して戦うことが出来ないとの判断で、三日後の二十四日から桜花隊員だけで建武隊という 零戦五二型で、通常二五0sを初めて爆装五00sを積んで建武隊を組織して出た。その後筑波隊とか、昭和隊とか、神剣隊とか、が有ります。国内の練習航空艦隊には三月以降特攻部隊が作られて、それが全部神雷部隊の下に入れられた。

四月十二日の菊水二号作戦に桜花も出撃しましたが、湯野川分隊は零戦で全員を連れて鹿屋を飛び立った。「行け」と言われれば、桜花・零戦どちらでも良かったのです。神雷部隊の指揮下で出撃したものですから、部隊の記録となり、戦没者の総数は八百二十九名、特攻認定者は七百十五名、にのぼりました。これが神雷部隊の全容です。

戦後一般的に神雷部隊は桜花と陸攻を組み合わせ、桜花の研究開発を含めたものとしています。と語っています。

六月の沖縄戦終了後、七二一空は本土決戦に備えて各地に分散配置、湯野川分隊は桜花隊先任分隊として、後方の石川県小松で終戦を迎えた。

終戦まで桜花(一一型)は七五五機生産され、一式陸攻の反省から、派生型(二二型)は軽快な銀河に搭載できるように、爆弾を半減600s、エンジンはモータージェット、航続距離120qを五十機生産、(四三乙型)は陸地射出(カタパルト)、爆弾800s、ジェットエンジン、航続距離278qを製造中で、実戦使用は無かった。

終戦となり八月二十一日の夜、部隊解散宣言を読んだ後、三年後に神雷部隊初出撃した日に又会おうと別れた。

「春分の日」に案内もなく三十七名が靖国神社に全国から集まった。昇殿・慰霊を行って、以後続けている。運命を共にした戦友との絆の日です。

 

五、結び

(一)、制空権と期待

 特攻の戦域は制空権が無い、桜花母機高度は3900m、直掩零戦4100mの大編隊が低速で接近すれば、敵空母群は容易に発見、迎撃機を発進させ、桜花の37q射程外で母機を撃墜すれば良い。後は護衛戦闘機との交戦で母機を通過させた分だけ桜花特攻からの損害を受ける。裏返せば航空戦力は護衛の少ない状況即ち、制空出来ない状況下で一回目の桜花特攻は全滅したのです。

一式陸攻の飛行長岩城邦弘少佐は出撃前「この状況では絶対成功しない」と飛行隊長野中少佐に言ったが、決心は堅く変わらなかったと伝えられている。

一方フィリピンに桜花を輸送中の航空母艦が敵潜水艦魚雷により宮古島沖で撃沈したが、護衛する駆逐艦が不足で、制海権が無かったと言える。貨物船で良かったのに、空母も作戦参加だったのか?

戦域は敵機を察知するレーダー航跡情報及び部隊行動の通信傍受により攻撃側の形勢は不利になっていた。

作戦実行段階で無理と思っても、特攻専門兵器の完成、早く成果を上げ、形勢逆転を期待する上層部等の焦りがあったのではないか。

(二)、兵器と練度

戦争の初期、零戦の戦果は目覚ましかったが、米国はこれに勝つため零戦を捕獲し徹底研究、之に勝つ性能の戦闘機開発に必死で取組み、二〜三年後にはF―4やF―6を開発、戦う零戦は1対3でなく1対4でなければ勝てないと現場では実戦による性能の評価をしていた。また操縦者もベテランの損耗と新人の大量養成による戦力低下が認識されていた。

桜花の訓練の特異なのはK1の砂地に着陸する訓練は一回のみであり、訓練の目的は桜花の操縦性の良さを体感させる事、滑り込みを成功すれば合格。突入は同じで、低高度からポプアップ攻撃を零戦で行って戦果を挙げている。隊員は特攻をどちらで選択するかと言った時、打撃力のある桜花を選ぶ方が多かったという。しかし桜花の懸架方式による鈍足が唯一の欠陥で桜花の著しい戦果を上げられなかった。

ロシアのウクライナ侵攻のニュースを見聞しますが、NATO諸国がウクライナに戦車等新たに使う兵器を支援する際にその教育訓練もセットにしている。兵器と練度による成果は常に問われます。

(三)分隊長は運根鈍

 桜花隊の分隊長で終戦を迎えた湯野川大尉は命を捧げて戦うと決心し、フィリピンでの先陣の戦いは作戦中止、九州南方の敵機動艦隊へ出撃前別杯中に母機全機被弾し断念、零戦でも特攻出撃して生還、特攻で戦果を挙げる「」に恵まれなかったのか、部下を先に人選し、自分は最後を務めるのが隊長、と上司に言われ、根気よく戦う機会を待ち、終戦となった。生き延びたのも「」なのか。

 小生中学生の頃将来を考え、軍人だった祖父(陸士十期)に聞いた。日清・日露戦争に行き、盧溝橋事件に係わった。軍人という職業は、祖父は「運根鈍」だ、と答えだったことを思い出します。湯野川元司令に伺いたかった桜花の成否は、過去記事より知り得ました。

(四)桜花関連の碑

1 桜花の碑 昭和四十年三月出撃二十周年記念に鎌倉市建長寺に神雷部隊戦友会(会長岩城邦弘)が慰霊碑を建てた。

2 桜花別盃之地碑 出撃地の鹿屋市

3 桜花練成之地碑 神栖市神ノ池基地

2・3共に元桜花隊員小城久作氏が自費で建立、親しくしていた神雷部隊従軍記者山岡荘八氏が碑に揮毫している。

詳細は会報一四一号四四・四五ページ

 

    ******************* ホームページへ ********************